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宮本茂十郎手織の透綾(絹縮)裂地
宮本茂十郎手織の透綾(絹縮)裂地

宮本茂十郎手織の透綾(絹縮)裂地

文政12年(1829年)、京都西陣あるいは上野桐生の渡り職人であった「飯塚茂十郎ナルモノ」が十日町を訪れ、絹縮で透綾(すきや。透けるほど薄い絹織物。)を織る技術を開発し、高機の製法を伝授したといわれています。苧麻による越後縮産地の十日町が本格的に絹織物産地へと歩み始めるきっかけとなった出来事でした。

茂十郎の手織りと伝えられている裂地3点は、十日町市榎町(現・宮下町東)の樋口佐七家(屋号「金登屋」)の裂見本帳「雛形帳」に貼られています。脇には、樋口佐七によりこう書き込んであります。


 明治廿年、樋口八十八殿ヨリ飯塚茂重郎殿ノ切本ヲ賜ル

 元祖飯塚茂重郎殿、十日町ニテ織初メノ見本ニテ、切ハ八十八方ヨリ賜ル

 飯塚茂重郎君前同断

  ※明治廿年=明治20年(1887年)


文中に登場する樋口八十八(屋号「呉服屋」)は、縮問屋「丸屋」の分家といわれ、ともに茂十郎が織った製品を一手に販売していたと伝えられています。丸屋(樋口家)は十日町に古くからある縮問屋で、「六軒問屋」(ろっけんどんや)のひとつです。
この裂地は御用縮の発注から製織、納品までの流れを解明する注目すべき資料であるだけでなく、茂十郎が確かに存在したことを示す現存唯一の遺品であり、大変貴重といえるでしょう。

なお、十日町の絹織物産業発展の功労者といわれながら、茂十郎の素性や経歴などはほとんどわかっていません。飯塚姓は、新明町の飯塚家に世話になっていたときについたともいわれますが、足利・桐生にいる頃から「飯塚」だったという説もあります。また宮本姓や「郎」は諏訪神社の麓に大正年間に記念碑を建てたときにつけたもので、かつては単に「茂十」と呼ばれていたともいわれています。また漢字が一定せず、上の雛形帳には茂重郎と書かれています。

十日町での滞在期間はわずか2年ほどだったといい、その後の消息も不明です。本当に謎の多い人物です。

(1) 種別 十日町市指定有形文化財(工芸品)
(2) 名称(読み) 宮本茂十郎手織の透綾(絹縮)裂地(みやもともじゅうろうておりのすきや(きぬちぢみ)きれじ)
(3) 記号・番号 工・第9号
(4) 所在地 十日町市西本町1丁目
(5) 所有者 十日町織物工業協同組合
(6) 管理者 十日町市博物館
(7) 登録日 平成13年(2001年)3月22日

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