新保広大寺節
概要
津軽じょんがら節や八木節の元唄となり、日本民謡のルーツといわれています。新保広大寺節保存会が歌と踊りを伝承しており、1984(昭和59)年1月26日に市の無形民俗文化財(民俗芸能)に指定されました。
越後瞽女(ごぜ)達が唄い広めた「新保広大寺節」は、江戸時代の五大流行唄の筆頭ともいわれています。北上した越後瞽女は、山形、秋田、青森、北海道と唄い歩き、そして「津軽じょんがら節」、「口説節」(くどきぶし)、「道南口説」、「北海道鱈つり唄」などに流れ継がれていきました。
関東方面に上京した越後瞽女によって、このザレ歌は上州風土に合う「木崎音頭」、「八木節」へと変じていったといわれています。南下した越後瞽女は、信州路から甲州路や中仙道へと唄い歩き、「古代神」(こだいじん)、「麦わら節」に変化や影響を与えました。また、三国峠を越えて「八木節」や「船屋唄」のルーツとなり、北へ向かって秋田民謡に影響を与え、青森で「津軽じょんがら節」を生み、更に西へ向かっては、中国地方の民謡「古代神」の元唄となり、全国各地の「口説」の源流となっています。
瞽女(ごぜ)とは?
瞽女とは、「盲御前(めくらごぜん)」という敬称に由来する女性の盲目(現在の言葉では「視覚障がい者」)芸能者のことです。近世までにはほぼ全国的に活躍し、20世紀には新潟県を中心に北陸地方などを転々としながら三味線、ときには胡弓(こきゅう)を弾き唄い、門付巡業を主として生業(なりわい)とした旅芸人です。
歌詞
新保 ナーエ コリャ 広大寺かめくり(花札ばくち)こいて
コリャ 負けた ナーエ 袈裟も衣も ヤーレ みなさえ コリャ 取られた ナーエ
(囃し)
ああいいとも いいとも 一時こうなりゃ 手間でも取るかい ナーエ
あとでもへるかい いいこと知らずの 損とりづらめが いいとも そらこい
新保広大寺に 産屋が出来た お市案ずるな 小僧にするぞ ナーエ
桔梗の 手拭いが 縁つなぐなら おらも染めましょ 桔梗の型てば ナーエ
(囃し)
そうとも素麺 下地が大事だ こいてばコンニャク きんには大事だ
もっとも麦飯 とろろが大事だ おらカカそれより まんこが大事だ
いいとも そらこい
さほど目に立つ お方じゃないが どうやら私の 虫やが好くてば ナーエ
(囃し)
新潟街道の スイカの皮でも 抱いたら離すな 十七島田に 乗ったら降りるな
きっきとこいだら ほっぺに吸い付け いいとも そらこい
新保広大寺が ねぎ喰って死んだ 見れば泣けます ねぎのはたけ ナーエー
殿さ殿さと ゆすぶりおこせば 殿さ砂地の 芋で無いぞ ナーエー
- 種別 十日町市指定無形民俗文化財 (民俗芸能)
- 名称(読み) 新保広大寺節(しんぼこうだいじぶし)
- 記号・番号 民芸・第6号
- 所在地 十日町市下条4丁目371(下条公民館)
- 所有者 新保広大寺節保存会
- 指定日 1984年(昭和59年)1月26日
広大寺の位置