文化6年(1809年)に築いた借景型の庭園です。
儒学者亀田鵬斎(かめだ-ぼうさい)が江戸より訪れ酒井家(頸城郡山谷組の大肝煎の家)に逗留したとき、長崎の画家、釧雲泉(くしろ-うんぜん)も訪れており、酒井家の第11代当主忠之進が両氏に築庭を要請しました。雲泉はただちに倪雲林(げい-うんりん:南宋の画家。)筆の「晋州摘翠山房の図」を模し、これをもとに設計した。鵬斎・雲泉両氏は自ら土石を運び、樹木を植え、池を掘り、石を配して庭を築いた。石は紀州からも運び、佐渡の赤玉石も求めたといいます。
庭園からは、東方に八海山、駒ケ岳、金城の峯を、東北方には守門の山並み、南方には苗場を眺望することのできる借景型の庭園としました。 片隅には、手洗い石があり、鵬斎の次の誌が刻まれています。
越山之石 不琢不磨 文成流泉 理成廻波
鬼耶神耶 吾見其巧 非鬼非神 自然天造
鵬斎興銘
昭和55年(1980年)4月11日に十日町市の史跡名勝天然記念物(名勝)に指定されました。