標高385mの尾根上にある戦国時代の山城です。
南方は急峻を利用し、北方には渋海川(しぶみがわ)を境にして、各種削平地を伐り開く、東西に尾根が連なり、西に二の丸、東に三の丸(現在は櫓が建っている)を有し、尾根には堀をつくる普請跡がみえます。
西南方向に進むと2条の空堀があり、それぞれ深さ2.6m、幅1.5m、長さ24mと、同じく3.5m、4m、25m。北東方向位は、三の丸跡が昨今削平されて模擬城が建ち、遺構が破壊されています。
南北朝時代に、風間九郎左衛門が南朝方の風間信濃守に呼応して拠ったという伝説があります。また、後年、上杉謙信の関東出陣の際に、軍用道路に沿って城があり、謙信愛用の袈裟をかけた松もあったと云います。謙信死後の「御館の乱」(※)の際には、上田城(南魚沼市)と春日山(上越市)とを結ぶ通路にある要害のひとつだったと推測されています。
1970年(昭和45年)8月7日に旧・松代町の文化財に指定されました。
※御館の乱(おたてのらん) 1578年(天正6年)3月13日に上杉謙信が急死したあと、上杉家の家督をめぐって謙信の養子である上杉景勝と上杉景虎との間で起こった後継者争い。景勝が勝利し家督を継いだ。