織物の歴史 麻織物のはじまり 越後縮まで二千年 十日町市におけるもっとも古い織物の証拠は、弥生時代(紀元前4世紀~後3世紀中頃)の遺跡から得られました。紡錘車という、糸を巻き取る道具が発見されているのです。奈良時代(710~794年)の紡錘車も残っており、現在の博物館はそれが出土した遺跡の上にあります。奈良の東大寺の正倉院しょうそういんには、越後から庸布ようふ(税金の一種)として貢納こうのうされたものが収められており、一部は苧麻ちょま製と分析されています。ただし織りの品質は並程度と考えられており、ほかの多くの国と同様に特産品というわけではありませんでした。 平安時代から鎌倉時代の布についてはまだわかっていませんが、鎌倉時代末期の南北朝の動乱が終息して、越後守護の上杉うえすぎ氏の施政下に入る14世紀後半には、布の原料となる苧麻ちょまを1次加工した青苧あおそを独占的に取引する商人の同業者組合(青苧座または苧座)が、越後府(現・上越市)に組織されていたことが分かっています。産地付近にある青苧座は越後府以外には知られてなく、その規模の大きさを物語っています。 十日町市は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて上野国こうずけのくにの新田にった氏の一族(大井田おおいだ氏等)が入って治めていました。この大井田氏等の施政下で、越後府を中心とする青苧の生産や輸送、交易のシステムにかかわっていた可能性があります。 15世紀初め頃には「越後布」「越後」「ゑちこ」などと呼ばれる布が近江の高宮布などとともによく利用されるようになりました。戦国時代では、越後の著名な守護大名である上杉謙信けんしん・景勝かげかつらの重要な交易品として利用されていたと考えられています。この頃には植物繊維から作る高級な布(上布)としての地位を確立したようです。 江戸時代(1603~1868年)になると、他の産地との競争が激しくなったこともあり、17世紀中頃に苧麻製の縮織を開発しました。越後縮は緯糸(よこいと)に強い撚(よ)りをかけて糊で固めてから織り上げ、のちに糊を落として意図的に縮みシワをつけた織物で、肌にべたつかない夏衣用の織物として重宝されました。江戸時代、魚沼地方を代表とする越後の特産品として知られ、天明期(1781-1789年)には年間20万反ほども生産されました。また高級織物として公家や武家にも販売しており、江戸城参内の際の制服とする規則が制定されたり、徳川将軍家から発注されたりしました。 麻織物から絹織物へ 「明石ちぢみ」ストーリー 明治時代以降、十日町織物は原料を青苧(あおそ)から絹(生糸)へ移行させるとともに、工場制生産へと転換しました。1900年(明治33年)に起きた「十日町大火」で中心市街地の大半が焼失し、織物産業も大きな打撃を受けましたが、その後、苦難を乗り越えて街は再建され、織物同業組合の設立や、染織学校の開校、新商品の開発が続けられました。そして、夏物の「明石ちぢみ」や秋冬物の「意匠白生地」を生み出し、オールシーズンの織物生産を実現させて絹織物産地としての基礎を確立しました。十日町の全国にとどろかせた「明石ちぢみ」誕生のストーリーを紹介します。